感覚に同じ審級にて別のセンスが忍び込むこと。いや、忍び込むなんていうもんじゃなくて夜這いをかけられたことを連想したりする。貞操と自尊心を嬲られたような信号を自我は受け取っている。
弟がそこの海からイソギンチャクとヤドカリとカニとフジツボを捕ってきたので水槽に入れたらカオスになった。が、まぁカオスはカオスなりに面白い。濾過が滞らなければいいのだが。海水魚の飼育システム立ち上げと維持はPCを組んで自分好みに作り替えていく手触りに似ている。
地震について、意図的にニュースを見ないようにしているが、最小限の情報はどこからともなく入ってくる。万が一、これから述べる文章が不謹慎に聞こえたら容赦願いたい。大地震があったあの日まで1週間くらいディザスター(大惨事)系の夢を毎晩見ていて地震があったと聞いた時、正直夢と現実の区別がついにつかなくなったかと思った。
原発がダウンしそうだというときも私は誇大妄想的に土壌と水と大気がどのように汚染されるかイメージが一気に湧いたが、ちらとTVのニュースを見るとあまりに小さな予測被害を伝えていた。今ここに至って自分の当初のイメージに近づいている。土壌がだめになるのは言うまでもないが、「処理に関した水が危ない。念のためあっちの海産物も避けた方がいいかもしれない」と3号炉にバケツでどかんをやる前から家族には言っていた。
自分を予言者と言うつもりは全くない。ただ、病的なまでに先鋭化した感性が僅かな手掛かりを意識下で感じ取っていたのではないかとは思っている。きっと統合失調症者が一定の割合で民族にもかかわらず存在するということはそういうことなのだろう。主観が公平化された時代のアンテフェストゥムの踊り子たち。ならば、もしかするとフェストゥムの子供達とはポストフェストゥムのルネサンス人であろうか
。
映画の鑑賞記録です。(ONTV提供)
2011年04月03日
2011年04月01日
今日は、よんがつの狂人
年が代わって、年度が代わっても状況は非生産的なままなので少しずつここで駄文を認めていこうと思う。実際のところ2月くらいからしか休んでいるような感覚はないのだけれど。
今週は感覚が蝕まれていくのが確かなので、自動車の運転ができなくなった。風呂に入るのも避けざるを得なく、階段の上り下りもフリーフォールに乗るくらいのスリルがある。正気はこの文章を書いていることから保てているとは思うのだが一部の思考が気づかないうちに(これが強くなると「病識がない」と表現されるのだろう)絶対にそうではあり得ない妄想に捕まっていることが僅かずつ増えてきた。
道路工事で家の前に居る人たちは自分のことを嫌いに違いない。仕事と称して嫌がらせをしているのだ。味方だと言ってくれた人たちは道路にいる男たちをなぜ排除してくれないのだろう・・・。前意識的な思考が時々そのように展開している。そして意識化して修正を加えるたびに思う。なんと前意識的な思考の多いことか。
そして本当の危機感をうっすら覚えている。つまり自動化された思考の狂乱。大規模なベルトコンベア工場に監視役の人間が僅かだけ居るような光景。彼は自我と呼ばれる。超自我という経営そのものを担う人間もいるが、今回は登場願わない。私の危機感、つまりベルトコンベアの一斉誤作動、および配置された僅かな監視役では律しきれない恐慌。さて、生み出されるものとはいったい何か。
閑話休題
ブログパーツを凶悪なほど増やしていきたい気分。既に左の本棚が凶悪だという言葉もあるが。まあ今日いくつかは設置した。世は「ついったー」でより即時的で軽い流動的な情報──それが一体なんの徴候なのか私にはよくわからないままいる──に席捲されてるだけでは面白くないので、このブログは重さを引き受ける。あるいは引き受けられる人を歓迎する。
ところで、パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』を誰か知らないだろうか。
今週は感覚が蝕まれていくのが確かなので、自動車の運転ができなくなった。風呂に入るのも避けざるを得なく、階段の上り下りもフリーフォールに乗るくらいのスリルがある。正気はこの文章を書いていることから保てているとは思うのだが一部の思考が気づかないうちに(これが強くなると「病識がない」と表現されるのだろう)絶対にそうではあり得ない妄想に捕まっていることが僅かずつ増えてきた。
道路工事で家の前に居る人たちは自分のことを嫌いに違いない。仕事と称して嫌がらせをしているのだ。味方だと言ってくれた人たちは道路にいる男たちをなぜ排除してくれないのだろう・・・。前意識的な思考が時々そのように展開している。そして意識化して修正を加えるたびに思う。なんと前意識的な思考の多いことか。
そして本当の危機感をうっすら覚えている。つまり自動化された思考の狂乱。大規模なベルトコンベア工場に監視役の人間が僅かだけ居るような光景。彼は自我と呼ばれる。超自我という経営そのものを担う人間もいるが、今回は登場願わない。私の危機感、つまりベルトコンベアの一斉誤作動、および配置された僅かな監視役では律しきれない恐慌。さて、生み出されるものとはいったい何か。
閑話休題
ブログパーツを凶悪なほど増やしていきたい気分。既に左の本棚が凶悪だという言葉もあるが。まあ今日いくつかは設置した。世は「ついったー」でより即時的で軽い流動的な情報──それが一体なんの徴候なのか私にはよくわからないままいる──に席捲されてるだけでは面白くないので、このブログは重さを引き受ける。あるいは引き受けられる人を歓迎する。
ところで、パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』を誰か知らないだろうか。
2011年03月31日
マイ・キネマ・アーカイヴス
ONTV◆MOVIEというサイトでこれまで観た映画をリストにしました。これまでに観た映画の8割くらいは押さえられているかと思います。多めに見積もっても1000本は観ていないんだなと。
http://movie.ontvjapan.com/users/phase4/movie/all
まだ全部ではないですが、観た映画は☆の数で評価をつけています。もちろん私の個人的な評価ですが、ジブリだから下げるフィンチャーだから上げるというようなことはしていません。ただし、出演者が良かった場合は☆を追加しています。日付は無視してください。
大まかな基準として☆3つ以上が「鑑賞して損をしたと思わない」もの、☆2つは諸々の理由で☆3はつけ難いもの、☆1つは明らかにボアリングな作品、☆ゼロ(ゼロがあります)は様々な要素が混乱していてもはや映画としての体を為していないのではないかというようなもの。
☆4は「面白かった」に加えて心揺さぶられるものがあるもの。言い換えれば2回以上観ても良いと思えたもの。☆5は☆4に加えて私の個人的な好みが多量に含まれたもの、というような感じです。文章レビューは今のところしていません。
http://movie.ontvjapan.com/users/phase4/movie/all
まだ全部ではないですが、観た映画は☆の数で評価をつけています。もちろん私の個人的な評価ですが、ジブリだから下げるフィンチャーだから上げるというようなことはしていません。ただし、出演者が良かった場合は☆を追加しています。日付は無視してください。
大まかな基準として☆3つ以上が「鑑賞して損をしたと思わない」もの、☆2つは諸々の理由で☆3はつけ難いもの、☆1つは明らかにボアリングな作品、☆ゼロ(ゼロがあります)は様々な要素が混乱していてもはや映画としての体を為していないのではないかというようなもの。
☆4は「面白かった」に加えて心揺さぶられるものがあるもの。言い換えれば2回以上観ても良いと思えたもの。☆5は☆4に加えて私の個人的な好みが多量に含まれたもの、というような感じです。文章レビューは今のところしていません。
2011年03月29日
私事なる秘やかたらんとする再開(邂逅)の書き置き
<ノート>
状況は煮詰まってきていてこの鍋を捨ててしまおうかまだ洗えるものか判断に困るようなそのような境遇。あるいは病人。
今現在の私について、あまりに主観的世界を構成するパラメタが共約数を逸脱しているようで、その不正値を“こうであったであろう”という未知の真値で補正して文字フォーマットに落とし込むのに文字通りの意味で不断ならざる努力が必要。
まずはこうだ、人の声と人の顔を認知することで空間が歪む。空間の歪みは視覚的には捉えられない視覚認知は正常に作動しているが、空間の歪みを感得する。このリアリティは嘘偽り虚飾の類は混じっていない。顔は押井守の映画で人が考えつつ沈黙する場面で演出される額の斜め上から魚眼レンズで撮ったよう。あるいはペンフィールドのホムンクルス。そう、ペンフィールドが正しいのであれば顔の重力が増すのは病気の兆候ではなくイデアに近づいているからでは。ならば真値を補正できないことを精神病と呼ぶのかもしれない。
膨らんだ風船の中に三半規管だけ突っ込んである器官を想像してほしい。ここに人の声をぶつけるとどうだろう。声はもはや声でなく、密閉された空間で反響する音=空気の波動はランダムに三半規管を突破する。人の声がそのような感じで聞こえる。自分の声は、その風船の外部にもう一つ風船を想定する、つまり風船の中にもう一つ風船が入っていてその中に三半規管が突出している。自らが喋り続けるのはその外側の風船に空気を入れていくような感覚。気圧が変化していき、中の風船の中の空気が押し縮められ、我らが三半規管は激しい目眩を帰結として得る。
</ノート>
状況は煮詰まってきていてこの鍋を捨ててしまおうかまだ洗えるものか判断に困るようなそのような境遇。あるいは病人。
今現在の私について、あまりに主観的世界を構成するパラメタが共約数を逸脱しているようで、その不正値を“こうであったであろう”という未知の真値で補正して文字フォーマットに落とし込むのに文字通りの意味で不断ならざる努力が必要。
まずはこうだ、人の声と人の顔を認知することで空間が歪む。空間の歪みは視覚的には捉えられない視覚認知は正常に作動しているが、空間の歪みを感得する。このリアリティは嘘偽り虚飾の類は混じっていない。顔は押井守の映画で人が考えつつ沈黙する場面で演出される額の斜め上から魚眼レンズで撮ったよう。あるいはペンフィールドのホムンクルス。そう、ペンフィールドが正しいのであれば顔の重力が増すのは病気の兆候ではなくイデアに近づいているからでは。ならば真値を補正できないことを精神病と呼ぶのかもしれない。
膨らんだ風船の中に三半規管だけ突っ込んである器官を想像してほしい。ここに人の声をぶつけるとどうだろう。声はもはや声でなく、密閉された空間で反響する音=空気の波動はランダムに三半規管を突破する。人の声がそのような感じで聞こえる。自分の声は、その風船の外部にもう一つ風船を想定する、つまり風船の中にもう一つ風船が入っていてその中に三半規管が突出している。自らが喋り続けるのはその外側の風船に空気を入れていくような感覚。気圧が変化していき、中の風船の中の空気が押し縮められ、我らが三半規管は激しい目眩を帰結として得る。
</ノート>


